8・6平和集会
- 公開日
- 2020/08/06
- 更新日
- 2020/08/06
はたしょう日誌
今年は、」平和登校日ではなく、1学期末の平和集会・・・ズームで全体会を行った後、各教室で学年で選んだ平和学習・・・絵本や新聞を使って平和のことを考えました・・・朝の広島平和記念式典で広島市長が「コロナに勝つにも戦争をなくし世界平和を実現させにも各国の連帯や協調が必要だという趣旨のメッセージを述べられていました・・・まさに同感・・・そして、戦闘員同士の戦いを非戦闘員の殺りくへと大きく舵を切った戦力爆撃の非を強く実感します・・・過去の記事ですが、よかったらご一読ください。
<「はたのっこ」平成29年9月号より再録>
秦野が空爆された日〜「戦略爆撃の思想」を消し去りたい〜
昭和20年3月19日、大阪府内を米軍が空襲し、池田にも爆弾が初めて落とされました。この時、幸いにも池田市での人的な被害はありませんでしたが、昭和20年から本格的に始まった米軍の空爆では、軍事施設ではない市街地や農村部まで深刻な被害を受けました。特に3月10日東京、12日名古屋、13日大阪と続いた大空襲では恐るべき数の市民が死傷しました。日本の軍事製品は小規模な町工場で製造されているから、町を焼夷弾で焼き尽くすことは問題ないというのが米軍の考えでした。こういった軍事施設ではない場所を空爆して、インフラを破壊し、戦意を喪失させる空爆を戦略爆撃と言いますが、これは非戦闘員の一般市民を塗炭の苦しみに陥れる非人道的行為以外の何物でもありません。その究極が沖縄・広島・長崎での市民殺戮でした。「米軍は酷い」と思いますが、戦略爆撃をアジアで最初に行ったのは日本軍でした。昭和13年から中国の首都重慶に218回にわたって空爆を続け、多数の市民を犠牲にしました。これは、ピカソの絵で有名なドイツのゲルニカ爆撃に続く都市部への戦略爆撃の始まりでした。そして、6月7日に第3次大阪大空襲があり、ついに秦野でも犠牲者が出ました。大阪市内に来襲した米軍機は池田にも焼夷弾や小型爆弾を投下し、呉羽の里住宅や府立池田中学校(現池高)を炎上させ、死者3名を出しました。その後、米軍機は五月山を越え、細河を空襲しました。この空襲で池田での死傷者は20人に及びました。この日、秦野では空から襲いかかる米軍機と爆弾、燃え盛る建物の炎、その中を逃げ惑う人々の阿鼻叫喚でこの世とは思われない怖ろしい光景が繰り広げられたといいます。戦略爆撃の究極である原爆投下73年の今年、秦小では8月6日に全校平和登校日を復活し、子供たちと戦争について考えました。私たちは非戦闘員を犠牲にする「戦略爆撃の思想」が世界からなくなることを心から願ってやみません。