地震避難訓練
- 公開日
- 2025/01/15
- 更新日
- 2025/01/15
日々のできごと
本日、地震の避難訓練を実施しました。
放送や先生の指示に従い、子どもたちはまじめにきちんと避難ができました。
阪神淡路大震災からこの17日で30年目、ということで、昨日の児童集会でのお話の続きを話しました。備えあれば憂いなし。この機会に、万が一の時の対応について、ぜひご家庭でもお話をしていただければと思います。
校長 柏
日々のできごと
本日、地震の避難訓練を実施しました。
放送や先生の指示に従い、子どもたちはまじめにきちんと避難ができました。
阪神淡路大震災からこの17日で30年目、ということで、昨日の児童集会でのお話の続きを話しました。備えあれば憂いなし。この機会に、万が一の時の対応について、ぜひご家庭でもお話をしていただければと思います。
校長 柏
さて、オートバイで親戚が避難している高校に向かった先生は、まずは焼けてしまったおじさん、おばさんの家の場所を探しました。なにか思い出になるような大切なものが燃え残っていたらそれを届けようと思ったからです。しかし現場はそれどころではありませんでした。がれきの山は50センチ以上積もっている状況でしたが、なにひとつ形の分かるようなものはありませんでした。それほど激しい火事だったのでしょう。
地震の後の大きな火事の写真や動画を見たことがある人も多いと思います。でも、写真や動画でも、どうしても伝わらないものがあります。それは「臭い」です。
小さいころからよく遊びに行った親戚の家の周りはがれきの山。焼け残ったビルの壁は黒く焦げています。電信柱があちこち倒れ、電線が溶けて垂れ下がっています。そして、人も物も、思い出も、何もかもを燃やし尽くしてしまった何とも言えない臭い。悲しくてしばらくそこで立ち尽くしていました。
阪神淡路大震災で亡くなった方は6434名。先生の親戚はみんな無事でしたが、家族や友達が亡くなったという人は、どれほど悲しい思いをしたことでしょう。
先生が小学校の先生になって石橋小学校に来たのは、震災から2年後、1997年。一緒に先生になった同い年の女の先生は神戸の人で、家はあの高速道路が倒れたところの近くということでした。「家は半壊で、おばあちゃんが亡くなった」と言っていたのを覚えています。
石橋小学校の学習園の横の建物は、震災で倒れたと聞いています。また、伊丹のイオンの少し向こうにある、阪急伊丹駅も、駅が倒壊しました。この辺りも結構大きな被害を受けました。
この阪神大震災のあった年は、のちに「ボランティア元年」と呼ばれるようになりました。それはたくさんの人が、ボランティアとして被災地に駆けつけたからです。
先生もそれ以来、時間を見つけてはボランティアとして神戸に通いました。オートバイで通ったので、物を運ぶのに重宝されました。考えようによっては自己満足的だったかもしれません。でも少しでも役に立ちたい、というそれだけの気持ちでした。
先生は大学時代を東京で過ごしました。東京はほんとに地震が多く、小さな地震は月に2~3回は必ずあります。震度3くらいでは、だれも驚きません。震度4で、やっと「昨日地震があったよね」くらいの話になります。当時大阪は地震なんてほとんどありませんでしたから、東京は怖いところだと思っていました。
1993年に大学を卒業して大阪に帰るとき、友達に「地震のない大阪に帰りま~す。みなさん気を付けてね~」くらいの冗談をよく言っていました。そして皮肉なことに、その2年後に阪神淡路大震災が起こりました。先生だけではなく、関西の多くの人たちは、そういう意味でとても油断していたのです。関西で大きな地震が来るなんてほとんどの人は想像していませんでした。
科学が発展した今でも、地震の予測は誰にもできません。もっと大きな被害のあった、2011年の東日本大震災も、全く予測できていませんでした。地震はいつ起こるかわかりません。だからこそ、いつ起きても大丈夫なように備えておく、ということがとても大切です。
地震が起きたときにどうするか、どこに避難するか、今日のような避難訓練はとても大事です。また、万が一の時のためにぜひ家族でも、どこに避難するかなど、きちんとお話をしてください。