今度の金曜日、1月17日は、1995年に発生した阪神淡路大震災からちょうど30年目の日となります。
テレビのニュースなどでいろいろと報道されているのを見た子も多いことでしょう。
今日はその阪神淡路大震災が発生したころに校長先生が感じたことを話したいと思います。当時先生は24歳。いまのI 先生ぐらいの年でした。
地震が発生した朝の5時46分は、茨木市の実家で寝ていました。ものすごい揺れで目が覚め、布団の中でうずくまったまま動くことができませんでした。部屋は2階でしたが、このままでは家が壊れてしまうと思うくらいの揺れでした。
揺れが収まると、停電していましたので、真っ暗な中、一緒に暮らしていた母と兄、弟の無事を確認し、とにかく外に避難しようと思いましたが、玄関の扉が開きません。玄関を力いっぱいけって何とかドアを開け、外に避難しました。木でできたドアには穴が開きました。家の中は棚のものが落ちて散らばっていました。
外に出ると近所の人たちがぞろぞろと出てきました。1月の夜明け前の時間だったので、とても寒かったのを覚えています。外に出ると、水道管が破裂して、地面から水が噴き出していました。それからどこからかガスのにおいがしていました。おそらくガスも漏れていたのでしょう
電気は止まっていましたので、幼なじみの子のお父さんが車のラジオをつけて、みんなでニュースを聞きました。てっきり大阪で大きな地震が発生したのかと思っていましたが、淡路島で地震発生とのことでした。大阪でこんなに揺れたのに、周りはどんなことになっているんだろうと思いました。
7時くらいまでに電気は復旧。テレビでニュースを見ると、夜明けとともに被害の様子が少しずつ分かってきました。
ヘリコプターからの映像で、阪神高速道路が倒れていることが分かりました。それから、あちこちで火事が起こり始めていました。
先生のおじさん、おばさんが神戸の長田区寄りの須磨区に住んでいました。心配で何度も電話をしましたが、全くつながりません。長田区では火災が広がり始めていました。ニュースで火災が起こっている場所の地図を見ると、明らかにおじさん、おばさんの家は炎に包まれています。おじさんは戦争のときに、シベリアで捕虜にされていたときの影響で目が不自由です。おばさんは腰が悪くて歩くのも大変だったはず。本当に心配しましたが、3日後に、近くの高校に避難できていると連絡が入りました。先生はオートバイで避難所に向かうことにしました。
今日のお話はここまで。続きは避難訓練のときにお話しします。